第3章 税金の民商としての50年

 

長田民商創立当時の税務行政は、問答無用型の徴税で国税局は各地に税務署を作り(長田税務署は1949年(昭和24年)税務署員も大量に増加させるとともに、県当局は財務事務所を多数新設させ徴税攻撃を強めてきました。

増加所得税創設では、国税局は各地の税務署に税金の割り当てを行い、税務署間の競争をあおり税務署員へのしめつけ、業界へのしめつけを強化しました。

このため良心的な税務署員が納税者と当局の板挟みになり、自殺者まで出た事件が記録されています。

この時期に税務署員の組合(現在の全国税労働組合)が結成されています。

取引高税では税務署員が隠れて、伝票に証紙が張っているかを消費者に確認 して回るなどを行い、問答無用の更正決定を乱発したため滞納者が続出しました。

そのため国税局は特別滞納整理班を編成し、1チーム20名前後で構成し警察、進駐軍のジープに守られ、横断幕を掲げ市内を走り周り差し押さえをして回った。(ジープ税制はここから出ています。)

またこれ見よとばかり市内の公園などで差し押さえ商品を販売してまわった。

こういう中で、1947年(昭和22年)413日全神戸民主商工会長田支部が結成され、長田区では長田民商商工会 と名乗って業者要求実現の運動を展開しました。

1949年(昭和24年)3月 下駄屋、洋服店などの業者が長田神社に500名も結集し、重税反対の決議を行い、300台の自転車で六間道、大正筋、新開地、三宮への自転車デモを行っ たことも記録されています。

また同年4月にはあの有名な「人間差し 押さえ事件」がおこり、古川さんは腕時計に張られた差し押さえ証書をつけたまま、当時の大蔵大臣(池田隼人)に「このままでは風呂も入れない」と抗議の直訴を行い、謝罪させ、二葉小学校で報告集会を開 いています。

民商はこのような徴税攻勢には体を張って闘い、悪名高い取引高税を 1年後に廃止させるとともに、申告納税制度を守れ、生活費に税金をかけるな、個人事業税の撤廃闘争、自家労賃を認めよ、などの運動を展開しました。

個人事業税撤廃闘争は、1952年(昭和27年)か ら1954年(昭和29年)年にかけて全国的な運動を展開し、撤廃 こそ出来なかったがその結果、控除なしで総所得にまるまる課税されていたのが、控除額240万円にさせ(現在は270万円)税率 も8%から一気に5%に引き下げさす成果を上げた。

また1961年(昭和36年)に行った自家労賃と事業所得を分離して申告する闘争は、 全商連に結集し全国的な大闘争に発展し、申告前日に泣き泣き中止を 断念せざるをえない結果を招きましたが、白色事業専従者控除の創設、 基礎控除額の引き上げ、 青色申告者の専従者給与の新設、今日も脈々と生きている大工、左官、トビ職などの自家労賃を認めさすなど、大きな成果をあげた。

1968年(昭和43年)には今日も続いている 313重税 反対全国統一行動が開始されています。

申告納税制度を守らせる運動では、国税当局のさまざまな攻撃を、裁判闘争、大衆行動などでうち破り、1974年(昭和49年)の第72国会では、事前通知、理由開示などの決議を勝ち取り今日の税金闘争に脈々と生き続けられて います。

1964年(昭和39年)頃から策動しはじめた付加価値税、その後名を変えた大型間接税、売上税、一般消費税の導入に全会あげて反対運動を展開し、署名行動、街頭行動、のべ300名にのぼる上京団の派遣など24年間 阻止する運動を展開しました。

1989年(平成元年)オール与党の翼賛政治 が横行する中で力およばず消費税の導入を許しましたが、その後の参議院で消 費税廃止法案を成立させるなど、ねばり強い運動が現在も展開されています。

 

また今日では「納税者の権利憲章」制定運動、不公平税制を正す税務行政の民主化の運動などを広く業者団体、商工会と共同して展開しています。

 

 人間差し押さえ事件

 

この事件のあらましは、1950年(昭和25年)426日神戸垂水区にある廉売市場で起こった。

差し押さえをしたのは須磨税務署員、差し押さえられたのは当時、市場の会長であった古川定吉(当時38才)廉売市場には56店舗があったが、申告を無視して、売れる売れないにかかわらず一方的な割り当て課税、このため滞納者はどんどん増加 し、昭和25年には連日トラックでの乱暴な差し押さえが横行、このあまりにもひどい差し押さえ行為に、民商会員とともに抗議し、差 し押さえトラックの前に立ちはだかったり、寝ころんだりして業者の営業とくらしを守るため大奮闘。

このような背景の中で、4月26日午後4時過ぎ税務署員20名がトラックで差し押さえにくる。

いつものように古川氏が抗議、激しい押し問答、突然に税務署員が左手の腕時計に、 差し押さえの張り紙「何するんや、人間まで差し押さえするのか、 この事実を全業者に知らせる。風呂も入れない」と、激しい古川氏の 抗議も無視して引き上げる。

翌日税務署長の意向を受けて、差し押さえた税務署員が米一斗(当時は配給時代を持ってきて「何とかその差 し押さえの紙をはずしてもらえないか」と、平謝りの懇願、その翌々日には総務課長ほか5名が古川宅を訪ね総務課長が「この懐中時計は 父の形見で大切な時計だが、その差し押さえの紙が貼ってある時計と交換して欲しい」と、陳謝しながら懇願する。

古川氏はその要求も拒否して、差し押さえの紙を貼ったまま生活する。

数日後上京して池田大蔵大臣に「人間差し押さえ」の腕を見せ直訴、東京からかえると早速長田区二葉小学校で報告集会。古川氏の怒りは多くの業者の怒りに変わった。

そのため須磨税務署は一時差し押さえをストップせざるを得なくなった。

今度は財務事務所が そのスキをねらって差し押さえにくる。

交渉の結果「納税組合」を作ったらあらゆる条件をのむと約束し、市場事務所で減額交渉、滞納者が納得のいく税金になった。

それを聞いて税務署長が市場にやってきて、「財務事 務所方式で解決してもらえないだろうか」と、古川氏に懇願、早速組合で相談して了解する。

財務事務所と同じく、すべての納税者が満足して いく税金で解決した。

 

 自主申告・自主計算運動の歴史 

 

民商創立当時の自主申告の形態は、各会員が税務署へ事務局員と同席し申告 していた。

ここでは「机をたたいてなんぼ」式であつた。

1968年(昭和44年)から集団申告が始まりそれ以降申告書の書き上げは、支部、地域ごとに事務所に来所し、事務局員の聞き取り型での申告でした。

時として北部地区を中心に出張相談形式も行っていた。

1986年(昭和61年)9月、「自分の申告は自分」で決める申告納税制度の理念からすれば当然で当たり前の、自主申告にしょうという気運が高まり、税金相談員学校の開催などにより88名の税金相談員を育成し、また他民商への見学などを通じ、長年の申告書書き上げ形態の変更、理解を求めるため、1月班会(43%参加) 2月班会(72%参加)と奮闘しました。

 

当初「民商は何もしてくれない」「事務局何をするんや」の声が高く方針転換の理解不足から退会した会員も少なからず生まれました。

しかし 繰り返し繰り返し討議をする中で、「自分で申告書を書き上げた喜び」「知っている人が知らない人に教えあう、民商の良さが解った」などの理解も深まり、今日班での自主申告運動は定着しています。

そして班・ 支部の強化、会員主人公の今日の民商理念大きく寄与しています。